大日本国の束根所、伊勢の分峰、志摩国の内、朝熊山常住の金剛寺は、不動明王の常住するところなり。
朝熊山秘(神鏡広博記五巻の内、弘法大師御作なり。)
天長元年、高祖空海、大和国鳴川善根寺の明星石の上に、求聞持の法を満たしめたまふ。夜の暁に、虚空より童子来たりて白さく、「伊勢洲朝熊の嵩に座を示す。明星在らば行必ず成就せん」と云々。
天長二年正月十六日巳の剋に、朝熊に分け入り堂舎を見たまふに、人の住むこと勿し。柱の根摧け朽ち、燈油の光なければ、仏壇闇く、人の通ひも稀なれば、自ら少路の末も覚束なく、深山谷遠くして鳥の声も聞かず、草木老長し茂りて枝をいだし、碧岩の渡り嶮しくして賤が士殊勝の音だにもなし。是に大師、仏躰常住し、言なしといへども縁の遠きを誓願するを悲しむ。この心を思ふに我が仏、渇仰の心恋慕を懐き、流涙は雨露を争ふ。
その夜は三鈷洞に宿り、明くる晨、吾山中を見匝りたまふに、山神出でて言はく、「久しく我、大満薩(土+垂)の誓願を知ることを待つ。時に天神六代の尊、面足の蒼記をこの翁に預からしむ。我が住む所にして、高祖、求聞持したまへ。我、国土に聴くことを誓ひて、行者を再興し伽藍を護持せん」と云々。故に大師、曇海(くもみ)峰にて福智無比の法を行じたまふ。道場に束躰に人来りて、大師に白して言はく、「天照太神と日本後見尊と、住仏の谿にて待ちたまふ。来臨あるべし。」と言す。大師、御涙を流し御胸を欧、急ぎ住家の谿に到ります。
忝くも皇太神宮と日本後見尊と、大師に向ひ奉りて曰はく、「禰宜、以んみるに、祖尊面足・惶根尊始めてこの山に降り、一つの巌あるに立ちたまふ。足の蹤に朝の字あり。口より三鈷を吐きて曰はく、「両目尊、往古を想像るに、国常立尊より豊斟渟尊・国狭槌尊の三代は、陽神にして空に住みたまふ。(泥+土)瓊尊・(沙+土)瓊尊・大戸道尊・大戸間辺尊は、陽陰分るる神にして空に住みたまふ。面足尊・惶根尊、陰陽を知るなれば、予が子孫の末の重命保主、ここに見れたまへ。末(月+弖)種子の定めたまふべき所なり」と云々。時に明星出でて、光、輪宝を遶る。輪宝変じて仏躰と成る。これ今の虚空蔵にています。その面足の御沓を擲げますに、乳のごとく浮く。我が父母の伊弉諾・伊弉冊尊、この沓の上に降り、塵を集めて山と成したまふ。淡路国これなり。この土を定めて二神、地神を産みたまふ。大日霊尊禰宜、正哉吾勝速日天忍穂尊・彦火火瓊々杵尊・彦火火出見尊・彦波瀲武草萱葺不合尊、一百九億七十万八千歳なり。禰宜、衆生の為に仁王を産む。神武なり、と云々。それより以来、禰宜の子孫を貴見ること、五十二代なり。吾が子孫の末守りの仏は、三鈷洞に在す。禰宜、天津児屋根尊と与に、毎日の影向を断たず。仏閣、破壊し、機根結縁を待つ所なり。今、高祖、時を得たまへり。吾が母、伊蘆阿佐耶呵美目の福広めし所なり。諸神諸尊の影、この山に着きて、福智を請け国家を養ふ。然りといへども仏法を立てざれば、広く末世濁乱を救度し難し。高祖、今この地をして真言を宣べたまへ、未来永々において氏を継ぎ種子を続け、福富を殖やしめん所にせん」と曰ふ。
時に爰かに、七宝荘厳の楼閣出で起りて、弁才の天女現れます。「高祖の真法絶えず、この地において衆生と結縁し、満足を所求せしめん」と誓ひたまふ。亦、太神、高祖を引いて明星水に影向し、詫して曰はく、「親に知りたまへ、この水は、禰宜の降貴(あまくだりきた)る時、中空において具奉の神達の禰宜に奏して、「豊葦原中津洲は皆潮なり。備へ奉らんこと如何に」と白す。禰宜、覚り看れば、上も四万由旬、下も四万由旬なり。「何れの神か天へ上ること刹那(はや)からん」と詫貴(おお)せて、天村雲姫をして上らしめんと欲す。刹那からん程に上り行きて、太祖霊尊に白す。
太祖、太だ歓びたまひて、(漢字なし。こはくか?〔王+占〕)珀の瓦水を三合納(い)れて持ち下り、禰宜に献じたまふ。正しくこれに納む。乾より巽に出づ。流れに明星、御影を汗(ひた)しなす。この水三千世界に涌く。潮ならざる水の種はこれなり。正しく明星の御影の水淀に当る所は子孫の富貴になり、栄ゆるなり。水本を定むること、大満薩(土+垂)求聞持をこの地において尽きしめざらんがために、この法あり。君と臣と和合を定めて、国家安穏ならん」と。
亦、道を指して詫して曰はく、「禰宜は衆生の悪業を度(はら)はんがために、独鈷橋を渡る。一度この禰宜の末守りの仏に詣でて、独鈷橋を渡れば、明星水に直身(ひたみ)を遷され、汗(ひたし)の輩は煩悩の垢を洗ひ、兜率の内院に到るべし。もしくは人天の中に生れ、勝妙の楽を受けん」と曰ふ。到りて三鈷洞に向へば、宝石を指して曰はく、「この石は、面足の御踏(くつあと)、朝の字と作(な)れる石なり。その後、地魂自(よ)り金色の熊出現す。毎日寅の剋より巳の剋に至るまで、長(たけ)は三十丈を現し、世界を見輪す。時に悪魔、恵日に霜雪の当るが如くに消(きえう)す。故に朝熊高嶽と曰す。今禰宜に仕へまつる神獣の鎮宅はこれなり。吾が末守りの仏を見拝(おが)みたまへ」と曰ふ。
以下略
庚申様念仏
きみようちようらい こんにちは
こうしんさまの をゆわいに
こうしんさまの もうすには
よきことなれば よけれども
あしきなことは もうすなよ
われはだいどの はたにをる
よきもあしきも きくなれど
みまいきくまい はなすまい
こうしんごころで とほるべし
こうしんごころで とほるなら
いつしかやどる ふくのかみ
これがせじようの みせしめに
われはだいどうの ふちにたつ
まつりてこころを あらためよ
こうしんまつりで おめでたい
出典は『埼玉民衆史研究』第三号
もう一丁いってみよう。
川口善光寺和讃
くらきよの くらきにまよふ
われく(我苦)を みちびきたまふ
よきひかりでら
とやかくの ねがへもかなふ
川口の ほとけのりしやう
みだのさんずん
つみきへる こゝは川口
善光寺 みだのじようどへ
こころとゝめる
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
以下、近代歌謡史の豆知識メモ。それから、いくつかエピソードなど、、
歌が世につれる、ということ、つまり、歌が鋭敏にその背景の社会や世相をうつしだす、ということを、わたしは世間の一般常識の受け取っているようには、信じていないのだが、反対に、世が歌につれる、ということ、つまり、世の中が、逆に歌にリードされて歌の影響を受ける、ということは、わたしは世間の一般常識の受け取っているよりは、ずっと深く、真実だと信じている。日本の社会が、明日をも知れぬ生死の危険に、民衆をさらしていた、武士闘争の世の中から、無上の文芸が生まれてきた、というような、単純な裁断は、もはや、文学史の上でも通用しないように、今の時代の歌にしても、時代を表わしている資料として、単純に歌謡曲の歌詞を引用することなどできない。早い話が、歌謡曲の恋の歌は、雨にぬれ、鐘が鳴り、涙があふれている。それは、現代民衆の恋の心を刺激する題材だが、だからといって、現代の恋が、雨にぬれ、鐘がひびき、つねに涙ぐんでいるわけではない。
演歌師にも歴史がある。
第一期は「壮士節」の時代。民権論者による民権思想のPRの時代である。しかしこの時期は、全く明治時代に吸収されてしまう。
第二期は「書生節」の時代。民権論者に代わって、東京遊学の苦学書生のアルバイトである。この時期は、日露戦争の終りごろから、とみられるが、みようによっては、歌謡の「大正時代」は実質的にはそのころから始まったといえる。
第一期の演歌は、題材を、いわば新聞の政治面に求め、政治のニュースの伝達と、政治批判がその内容であったが、第二期の演歌は、社会だねがその内容で、世相風俗などの諷刺が主になった。そして、この時期の始まりの一つの目安は、神長瞭月の出現ということに、焦点をあわせることができる。
………(略)………
第三期は「演歌屋」の時代。苦学生のアルバイトが、プロになったのである。添田知道氏によると、「演歌師」という語が現われるのは、大正中期以後で、民衆は「演歌屋さん」と呼んでいたという。「スカラーソング」(明治四十二年)や「東京節」(大正七年。八年ともいう)などのもつ世相諷刺は、第二期の演歌の特色だが、第三期になると、演歌師に歌われる歌はぐっとその範囲を拡張する。のちには、演歌師を艶歌師と書いたりもしたが、そうあてても、もっともだと思われるような歌をどしどし演歌の中に取り入れていった。「金色夜叉」の流行などはそのいい例である。
ともかく第三期は、職業として演歌を歌った艶歌師の時代で、大正七年五月には、東京下谷に、「青年親交会」という、職業演歌師の組合が設立されている。
大正十四年三月一日、東京芝浦の東京放送局から、ラジオの試験放送が始まり、つづいて二十二日からは、仮放送が開始され、さらに七月十二日をもって
芝の愛宕山の新局舎からいよいよ本放送ということになった。歌謡は、それの民衆への伝達方法としてはなはだ有力なるものを持つにいたったのである。演歌師の時代は、終りを告げる時期がきた。そして同時に、歌謡の時代は、大正から昭和へと移っていくのである。
大正時代は、ほとんど完全にレコードの時代である。ラジオ放送が始まったのは、対処十四年三月のことで、すぐに器械をそなえはしたが、まだレシーバーのこととて、生活の中に、欠くべからざるものとして定着していなかった。ラジオは昭和になってからの文化だといっていいだろう。
この唄の、「命短し 恋せよ乙女」云々の詞章が、森鷗外訳の『即興詩人』からでていることは、すでに指摘されている。
朱の脣に触れよ。誰かそなたの明日の猶在るを知らん。
恋せよ。汝の心のなお若く、汝の血のなお熱き間に……(妄想の章)
おそらく、若き日の吉井勇たちは、『即興詩人』のところどころは暗誦していたはずであって、このベネチアの民謡の詩句も、鷗外訳によって、深く心にきざまれていたのに違いない。
こういう、吉井勇や北原白秋などの、歌謡の作詞者としての参加は、大正の歌謡にとっては忘れられないことと思うが、そうした詩人の参加の、一つの下地となったものは、明治四十一年に発足した、「パンの会」が忘れられない。パンの会は、四十四年ごろには自然消滅してしまったが、いわば、明治末期の耽美派芸術家の集まりであって、白秋の説明によれば、「明治末期の日本詩壇におけるフランス象徴派の頽唐気分の移入、同じく絵画としての印象派の影響、これに南蛮風の異国趣味と江戸の享楽情調等の交錯した産物」であったという。
会員たちが集まると、白秋の、
空に真っ赤な雲のいろ。
玻璃に真っ赤な酒のいろ。
なんでこの身が悲しかろ。
空に真っ赤な雲のいろ。
という詩を高唱したという。
戦地の兵隊暮らしの中へ、非常ないきおいではいって来たのが、
影か 柳か 勘太郎さんか……
という歌であった。口伝えのような流行だから、文句はよくわからない。カンタローというのが、伊那の勘太郎という、映画「伊那の勘太郎」の主人公の名だとわかったのは、なんでも、歌い出してから、かなり経ってからのことであった。満州の駐留部隊での生活から、宮古島での陣地構築の兵隊ぐらし、さらに、廃墟の東京への復員と、
捨てて別れた故郷の月に……
と愛唱し続けた。
それからしばらく経って、ときどき、飲み屋で雑談をするようになった、なくなられた三村伸太郎さんから、おもしろい話を聞いた。三村さんは、映画「伊那の勘太郎」の脚本を書かれた方だが、伊那の勘太郎という人物は、全くの、架空の創作であって、当時有名だった映画監督、稲垣浩氏を、映画界の人々が親しんで、稲垣監督を略して、イナカンと呼んでいた、それから思いついての伊那勘、すなわち伊那の勘太郎であった、というのである。ところが、三村さんが伊那へ旅行したところ、伊那の勘太郎の孫だと名告る人物が、祖父を顕彰してくれたという、お礼の挨拶にでてきた、というのである。
歌から、実在の人物がでてくるという、日本芸能史上の特異な事象が、近年においてもあったのである。大げさに言えば、歴史的事実に先行する文芸の流布である。わたしには、こういうことが、おもしろくてしかたがない。
奇行は決して狂気ではない。それはアピールの方法であり、喩であり、諷刺である。そのうえ奇行の面目は、見られるためのものであり、見せるためのものでなければならない。奇行とは捨て身にして果敢な現実対処の姿勢であり、批判である。そしてこの常識の円環から突出し、常軌を逸して滑稽である奇行の目的は、その反日常的行為の中に敢えて日常のひずみをあらわすという、大まじめの警世の声であるところに価値がある。奇行者の奇行のかずかずに、生き生きとした熱い生命感があふれているのに目を止めるならば、同じくそれが何に向けられた自己主張であるかも見なくてはならないだろう。
後冷泉院の頃、天狗の出没の甚だしい時期があった。叡山西塔に住む老法師が所用にため京に出た帰り、東北院の北の大路を通りかかると、数人の子供がどうしたことか年を経た古鳶(こえん)をつかまえて打ち叩いている。どうするのかときくと、殺して羽を取るのだという。あまりに不憫に思えたので、老僧は持っていた扇と引きかえに古鳶を子供からゆずりうけ逃がしてやった。
ところが、帰途もの暗い藪のかげから異様な法師が歩み出て、昼間命を助けられた嬉しさに何か恩に報じたいといい、自分は小神通力を得ている天狗だが、決して危害を加えるものではないから、安心して望みをきかせてくれという。少々うす気味悪く思いながらも興味深く思ったので、老僧は「自分は現世的な名誉は利益はもはや全く関心にない。その上、年も七十に達した。日頃思うことはただ、釈迦如来が霊山の会座に説法をなさったその時の有様はどんなにすばらしかったろうということだけである。ついてはその場面を演技してみせてはくれまいか」と頼んでみた。天狗は喜んで、「そうした物まねこそ最も得意とするところ。ただ、決して、まちがっても信仰の心などは起こさぬよう」と繰返し注意を与えて峯に登っていった。
老僧はいわれたとおり目を閉じて座っていると、世にも尊げな説法の声がきこえたので、見ると自分の周囲はすっかり、かの聖地霊山にかわっていた。紺瑠璃の地には七重の宝樹が立ち、獅子座には釈尊が、普賢と文殊を従えて座し、菩薩聖衆は雲霞のごとく、帝釈四王、竜神八部、すきまもないくらいに充ち満ちていた。澄んだ虚空のきわみから四種の薫花は降りしきり、香ばしい匂いは風にしたがってゆれ、紫雲に乗った天人が音楽を奏ではじめる。釈迦は蓮華に座して、深甚無窮の仏法を講演しはじめた。 老僧はしばらくの間、何たる見事な演技かと驚嘆していたが、いつか感動はこれが演技であることを忘れ、随喜の涙は頬を伝い、身内にこぞって信仰の血は熱くたぎった。忘我の境のうちに法悦の陶酔は絶頂に達し、老僧は手を額に当てて、「帰命頂礼釈迦牟尼仏」と叩頭の礼をもって帰依の心をあらわした。するとその時、にわかに烈風が吹きすさんで全山は音響とともにはためきさわぎ、紅紫金銀宝玉をもって彩なされた霊山の大会は空中に飛散し、一瞬のうちに貧寒たる暮色の山間は日常の風景に戻ってしまった。
私はこの話が好きで、もう何度も読み、筋書きは一つのこらず覚えている。しかし、読むたびに何ともやりきれない義憤めいた感情と哀れみに捉えられ、幻影の大会を蹴散らした仏の真実に反逆の思いを昂ぶらせる。もちろんこうした真実の主張は説話の語り手の恣意を反映したものにすぎないが、それにしてもこの天狗幻術と、老僧のみじめな敗北は、みじめすぎてかえって美しいとさえ思われる。
天狗を助けた老僧に落度はなく、天狗の報恩の申し出にも偽りはない。大会を見ることに憧れた僧の求めも、偽せ物にすぎないことを忠告しつつ演出した天狗の幻術も、それに思わず感泣した老僧も、すべてはあたたかな、人間的いたわりと希求の中に進行していたことなのだ。
あり得ぬ本物よりも、ありうる偽せ物を磨きあげ、理想の幻を 仮託するのはむしろ仏教芸術の常識であった。
『大日経』の不可得云々のことを引く。これは浄瑠璃などに見えたる「浮世のことは何もかも分からぬものじゃよのう」というようなことを、漢文で少々満足に書きたるのみと存じ候。
すなわち小生には一つの覚悟禅、何にせよ、妙なことじゃと思うが妙想なるべし。小生はこれらの外に心内の楽しみはなし。しかし、これのみで楽しみは大いなることと存じ候なり。感慨は物理に支配されるものにあらず。小生辞世の句として、例のどど一秘蔵せり。涅槃に先だちて仁者にのみ告ぐべし、いわく、「見えぬ山路を越え往く時にゃ鳴かぬ烏の声もする」。鳴かぬものに烏の声が聞こゆるはずなけれども、感慨はこれで小生には分かりおれり。されば心内の楽しみは感慨を主とするものなれば、たとい物事についてのみするも、決して理則にのみからまれず。故に形而下先生にはあらざるなり。
縦に視るもその理あり。横に見るもその理あり。上下に見るも然り。左右に見るも然り。前後また然り。離るること万恒河沙にして、しかも近きこと睫眉の間なり。千歳も一頃(いっけい)なり。由旬も一秒なり。(西洋哲学に心酔するものは、時と空間ははなるべからずという。糟粕なめのはなはだしきものなり。夢中に空間なし。また二十年前のことをまるで現今に見る。時間あることなし。それは夢みる一人になきなり。そのものの寝眠る周囲には空間あり、時も立つにあらずやといわんか。この身亡くて心ばかりのこるとせば如何。しかるときは夢ごときものが実在となりて、物質体みな外相となる。)
知るも知るも知り尽くされずして(人間の世よりは)、しかも沙粒もその内にまた理あり(大宇宙あり)。洪河も見様で大河の一天敵となる。すでにこの世にあり、楽を冀い苦をいむ。楽のいと安きは物に拘せられ、体に煩わされざるにあり。この無尽無劫の最大至微の妙相を、その一部を窺うてそのその大と微とを察し、常住歓喜してこれを賛せよとの意なり。故に不尽知なるに、その未知なるを知るの楽しみと望み尽くることを楽しみ愛し謝して賛するの意なり。


