枝の隙間から見上げてみろ。
あの星たちは人なのだ。
あのニンドゥが犬とともに
天空の決して水の絶えることのない
水袋を守っている。
そしてカラス男がいて、
傷ついたタカ男を肩に背負っている。
大蛇のトゥルーが
木の葉のあいだでピカピカと
カペーンタ、
あの月男がミアミアの中で座っている。
彼女たちは冷たい冷たい霜をつくる。
平原でキャンプしていると
彼女たちの声が聞えてくるのだ。
天空から眼下を眺め、焚き火を見つける。
すると「マイ、マイ、マイ、」と
天空を駆けめぐるように叫ぶ。
目がさめてみると
寝袋も、キャンプも、平原も、
みんな霜で真っ白だ。
『生命の大地』デボラ・D・ローズ
アボリジニのうた。どことなく朝熊山縁起や丹波の羽衣伝説を思わせる。
今月は産霊の信仰に就いてお話ししようと思ふ。むすびは漢字で書くと、産霊の字を宛てゝゐる。神の名で言へば、日本の神代の初めに現れる高皇産霊・神皇産霊が、その名の通り産霊の神である。其他にも、産霊の神は相当にある。ではこれら産霊の神の信仰は、どういふものであつたろうか。現在、我々の信仰しつゞけてゐる神道は、謂はゞ、宮廷神道に若干の民間神道の加つたものがつゞいて来てゐる訣だが、産霊の神の信仰になると、少し特殊なところがある。其点をお話して、あなた方に注意して貰ひたいと思ふ。産霊の神は、天照大神の系統とは系統が違ふので、其点をはつきりして置かないと、考へが行き詰つて了ふ。尚、今一つ注意して置かなければならないのは、縁結びの神である。近世、男女の名前と年齢とを白い紙に記して、社寺の格子戸とか境内の木の枝などに結びつけて、夫婦の契を祈る風習が広く行はれたのが縁結びの神の信仰で、此は大体、むすぶの神と発音されてゐる。此と産霊の神との関係はどうかと言ふ事になるのだが、産霊の神の信仰が浅くなつて後に、その中へ縁結びの神の信仰が這入つて来たので、この両者は、暫くは別にして話さなければならない。
其では、一体、産霊とはどう言ふ事だらうか。今、其神道的な使ひ方から遠退いて、普通に我々が使つてゐる近代のむすぶと言ふ事を考へて見ると、同じ物の両端を結びつけるとか、違つた物を一点に結合させる場合に用ゐて居り、具体的に言へば、譬へば、木の枝を結ぶとか、枝に物を結わへつける事と考へてゐる。では、かうした結ぶといふ動作は、何の為にするのかと言ふ事になるが、茲にまう少し違つた、特殊なむすぶの使用法がある。つまり、水を掬ぶと言ふ事である。水を掬つて飲むまでの動作をむすぶと言つてゐる。この掬ぶと、物を結合する結ぶとは、関係がありそうだ。此は、元来、或内容のあるものを外部に逸脱しない様にした外的な形を、むすぶといふ言葉で表現した点に共通した所があつて、其が、信仰の消えた後も、動作を表すのに、むすぶと言ふ言葉を使用して来てゐるといふ事になる。
水を掬ぶは、信仰的に言ふと、人間の身体の内へ霊魂を容れる・霊魂を結合させると言ふ事らしい。さうすると、其人間が非常な威力を発揮して来る訣で、其作法として、水を掬ぶと言ふ事をしたのである。つまり、水の中へ霊魂を容れて、其を人間の身体の中へ容れると言ふのが、産霊の技法だつたことになり、さう言ふ意味で、むすぶと言ふ言葉が、水を掬つて飲む動作にも用ゐられてゐるのである。併し、現在では、さうした産霊の精神的な内容は、失はれて了つてゐる。………(略)………
「お水信仰」は、(などというと馬鹿にしているようだけど、決してそんなつもりはありません)、紀元前から世界中でみられる由緒ある信仰ですが、その流れのなかに「産霊信仰」があったといえるかもしれません。日本では、元来、同じもの、といってもいいかな
『まゆの国』(井上善治郎)より
春駒の唄
サッサ 乗り込めはね込め蚕飼いの三吉
春の初めの春駒なんぞ
夢に見てさへ よいやと申す
年もよし 世もよし 蚕飼いも当る
蚕飼いにとりては みのの国よ
くわの郡や 小野山里で
結城種かへ 茨城種か
手種を合せて 三所の種を
飼妻の女郎衆に お渡し申す
飼女の女郎衆は ほめ喜んで
袴だけなる 厚綿なんぞ
手にかいキリキリしたため込んで
右の小脇に 三日 三夜
六日 六夜が其間のうちに
暖め申せば ぬくとめ申す
五日にソロリと お出でてござる
お出ではよけれど 掃くべき羽根は
空は天中 中舞う 鳥の
八ツの風きり 手にぬき持ちて
千代の碁盤に ソロリと掃いて
一ト羽根掃けば 千枚蚕
二タ羽根掃けば 二千枚蚕
三羽根 四羽根を掃く事なれば
紙にも余れば 籠にも余る
余り候や お余り候
之より南は 皆桑畑よ
十六七なる姐さん達が
髪は島田に こちゃんと結つて
銀の簪蒔絵の櫛よ
紺の前掛け 花染たすき
七子小竹の 目籠を持ちて
桑の若木に お手打ちかけて
スンナリたわめて ソロリとこいて
ソロリとこいては 目籠へ入れて
お宿へ帰りて お蚕さんに向い
手で押しもんでは あのお蚕さんへ
チラリ パラリと 進ぜてまわる
あのお蚕様の 桑召す様は
物によくよく 例へて見れば
昔源氏が 馬屋に住んで、
こうし栗毛が 牧田に下りて
まごもこべぜも ほに出た時は
朝日に向いては うらソヨソヨと
夕日に向いては もとチョリチョリと
食う様も 似た 匍う様も 似たよ
さらば お蚕休みが見ゆる
獅子の休みが 真実子飼
鷹の休みは 鷹子に優る
船の休みは 奮段蚕飼
庭の休みは 俄かに育つ
四度の休みも 難なく済みて
難なく くせなく 蔟に上る
蔟萱とて 卅五駄
お家の広さが 七十五間
蔟に上りて 作りし繭は
加茂の河原や 片品川の
重さ 堅さの このよい繭を
すぐりて見よとて 秤て見れば
種繭千石 小繭が千石
糸、繭共に万万石よ
万万石なる 繭山飾る
十や二間の 糸小屋建てて
十六おかまを ソロリと塗りて
大枠十六 小枠が十六
卅二枠を さあしやならべ
美濃の国では 繭ねり上手
上州の国では 糸挽上手
物の上手は お宿へ集め
残りし絹や 余りし糸を
三ン日 三ン夜に 繭ねり上げて
網代の籠に たたんで入れて
琉珠でかがりて リンリン締めて
荷物につもれば 七十五駄
七十五駄の この売物を
京へやろうか 大阪へやろうか
大阪三丁 栄の町よ
伊勢屋店へと 荷物を送る
伊勢屋店なる 番頭衆は
さてもよい絹 結構な糸と
ほめや喜び 買い取るならば
サアサ これから代物渡す
大判千両 小判が千両
丸金共に 万万両よ
万万両なる 金受取って
都ではやるが 大八車
大八車に ユラリと乗せて
六日 六夜に 綿かけ上げて
七日 七夜に 糸挽揃へ
明くる八日は 機織月よ
さらば この機 織らせる姫は
甘たへまの 中将姫よ
綾が上手で 綾を織らせ
月形 日形に 目笹に霰
雲に水鳥 霰に千鳥
獅子に 牡丹に 柳に蹴鞠
梅に鶯 織り込むならば
一疋織りたる 本三尺は
伊勢は神明の 大神宮様へ
二疋織りたる うち三尺は
熊野は 三社の 権現様へ
三疋織りたる うち三尺は
当所 処の 産土様へ
お蚕繁昌と お簾に上げる
布袋 ほくろく 寿老人様よ
毘沙門天には 弁才天よ
恵比寿が音頭で 大黒木造り
七福神が お手うちかけて
綾の手綱や 錦の綱で
ここのお家に 引き来るならば
ここのお家の 恵方の方へ
銭倉七ツに 金倉七ツ
十四のお倉の 扉をしめて
余りし金や 残りしおあし
お恵比寿様へと おん上げ申す
ここのお宅は 万万年も
お蚕繁昌と お祝い申す
武州入間河沈水の事
武蔵の国入間河のほとりに、大きなる堤を築き、水を防ぎて、その内に田畠を作りつつ、在家多くむらがり居りたる処ありけり。官首と云ふ男なん、そこに宗とあるものにて年比(としごろ)住みける。
ある時、五月雨日比になりて、水いかめしう出でたりける。されど、未だ年比此の堤の切れたる事なければ、「さりとも」と驚かず。
かかる程に、雨沃こぼす如く降りて、おびたたしかりける夜中ばかり、俄にいかづちの如く、世に恐しく鳴りどよむ声あり。此の官首と家に寝たる者ども、皆驚きあやしみて、「こは何物の声ぞ」と恐れあへり。官首、郎等を呼びて、「堤の切れぬると覚ゆるぞ。出でて見よ」と云ふ。即ち、引きあけて見るに、二三町ばかり白みわたりて、海の面とことならず。「こはいかがせん」と云ふ程こそあれ、水ただまさりにまさりて、天井まで付きぬ。官首が妻子をはじめて、あるかぎり天井にのぼりて、桁・梁に取り付きて叫ぶ。この中に、官首と郎等とは、葺板をかき上げて棟にのぼり居て、いかさまにせんと思ひめぐらす程に、此の家ゆるゆるとゆるぎて、つひに柱の根抜けぬ。堤ながら浮きて、湊の方へ流れ行く。
其の時、郎等男の云ふやう、「今はかうにこそ侍るめれ。海は近くなりぬ。湊に出でなば、此の家は皆浪にうちくだかれぬべし。もしやと飛び入りて、泳ぎてこころみ給へ。かく広く流れちりたる水なれば、自ら浅き所も侍るらん」と云ふを聞きて、幼き子・女房など、「我捨てて、いづちへいまするぞ」とをめく声、最も悲しけれど、とてもかくても助くべき力なし。「我等ひとりだに、もしや」と思ひて、郎等男と共に水へ飛び入る程の心の内、生けるにもあらず。
しばしは二人云ひ合はせつつ泳ぎ行けど、水は早くて、はては行末知らずなりぬ。官首ただ一人、いづちともなく行かるるにまかせて泳ぎ行く。「力はすでに尽きなんとす。水はいづくをきはとも見えず。今ぞ溺れ死ぬる」と心ぼそく悲しきままに、かこつかきには、仏神をぞ念じ奉りける。「いかなる罪の報ひに、かかる目を見るらん」と思はぬ事なく思ひ行く程に、白浪の中に、いささか黒みたる処の見ゆるを、「もし、地か」とて、からうじて泳ぎ着きて、見れば、流れ残りたる蘆の末葉なりけり。かばかりのあさりもなかりつ。
「ここにてしばし力休めん」と思ふ間に、四体に悉くまとひつくを、驚きてさぐれば、皆大ぐちなはなり。水に流れ行くくちなはどもの、此の蘆にわづかに流れかかりて、次第にくさりつらなりつつ、いくらともなくわだかまりゐたりけるが、物のさはるを悦びて巻きつくなりけり。むくつけなく、けうとき事、たとへん方なし。空は墨を塗りたらんやうにて、星一つも見えず、地はさながら白浪にて、いささかのあさりだになし。身には隙なくくちなは巻きつきて、身も重く、はたらくべき力もなし。地獄の苦しみもかばかりにこそはと、夢を見る心地して、心うく悲しき事限りなし。
かかる間に、さるべき仏神の助けにや、思ひの外に浅き所にかきつきて、そこにてくちなはをば、かたはしより取り放ちてげる。とばかり力休むる程に、東白みぬれば、山をしるべにて、からうじて地に着きにけり。船求めて、まづ浜の方へ行きて見るに、すべて目も当てられず。浪に打ち破られたる家ども、算を打ち散らせるが如し。汀に打ち寄せられたる男女・馬牛の類ひ、数も知らず。
其の中に、官首の妻子どもをはじめとして、我が家の者ども十七人、ひとり失せでありけり。泣く泣く家の方へ行きて、見れば、三十余町白河原になりて、跡だになし。多かりし在家、たくはへ置きたる物、朝夕よびつかへし奴、一夜の内にほろび失せぬ。此の郎等男ひとり水心ある者にて、わづかに寿生きて、明る日尋ね来たりける。
かやうの事を聞きても、厭離の心をば発すべし。これを人の上とて、「我、かかる事にあふまじ」とは、何の故にかもて放るべき。身はあだに、破れやすき身なり。世は苦しみを集めたる世なり。身はあやふけれども、いかでか、海山をかよはざらん。海賊恐るべしとて、すずろに宝を捨つべきにあらず。況や、つかへて罪を作り、妻子の故に身をほろぼすにつけても、難にあふ事、数も知らず。害にあへる故、まちまちなり。只、不退の国に生れぬるばかりなん、諸々の苦しみになんあはざりける。
沖浦
それから、ぼくが日本の仏教史との関連で重視しているのは、フランシスコ・ザビエルの日本上陸、そして「イエズス会」の教線の拡大です。これは日本の宗教史上の大問題です。その意義が、どうも過小評価されているんじゃないか。
五木
一時期、九州と機内を中心に西日本では、信者もどんどん増えていった。寺や神社が片っ端から焼き討ちにあうくらい、クリスチャンの勢いが強かった。なぜそんなに急速に、教線を伸ばすことができたんでしょうね。
沖浦
一五四九年のザビエルの渡日から、約八十年間にわたって、イエズス会をはじめカトリック各派が布教しました。その間の入信者は、実数はつかめませんが、七、八十万にのぼると推定されています。その当時の総人口は二千万人にも達しませんから、これは大変な数です。権力の側からすれば、一向一揆の再来みたいになってきたんです。
五木
それほど急激に信徒が増えたのは、やはり仏教各派が弱体化している空隙を縫ってということですか。
沖浦
一五七〇年から八〇年までの石山本願寺一揆が、勅命講和という形で本願寺側の敗北で終わります。それから仏教は完全に体制内存在になってしまって、一向一揆のような反権力的な勢いはまったくなくなってしまいます。そうすると、被差別民だとか貧乏な窮民や病人の面倒をみる寺院は、鎌倉新仏教を含めて、ほとんどなくなります。そのような危機の時代に、頑張ったのがイエズス会です。戦災孤児や窮民に対する食糧補給、ハンセン病者や見捨てられた老弱者の救済、これらをものすごくやる。
五木
なるほど。
沖浦
ルイス・デ・アルメイダ(一五二八?〜一五八三)というユダヤ人が、ザビエルを慕って日本にやってきました。彼が府内(現大分市)で、日本最初の外科・救癩病院を私財を寄付して建てた。ポルトガルの出で、もともと医者だったんですが、やはりユダヤ人差別の問題があってインドへ赴いて海商人になり、成功して私財を貯えた。だが、それだけでは人生は空しい。その時にザビエルに出会って、その教えに感動して、日本にやってきて教会の活動に参加し、自らも医師として働いた。晩年は神父として活躍しますが、天草で死んで日本の土となります。
五木
なぜ燎原の火のようにキリスト教が西日本一帯にひろがったかというのは、今のお話を聞いてみると非常によく分かりますね。イエズス会の活動は、親鸞をはじめ真宗の活動に似ていると思う。底辺の民衆の間で積極的に布教したところはまったく同じでしょう。蓮如が北陸へ行って、吉崎を中心にして、山の民や川の民など多くのマージナル・マンを抱えこむんですが、それと同じ過程ですね。
沖浦
そうです。ザビエルらのイエズス会は、カトリック諸派の中でも、ローマ教会からみれば正統ではなくて、どちらかと言えば異端なんです。イエズス会の初代会長だったイグナティウス・デ・ロヨラも、このザビエルも、少数民族のバスク人なんです。
五木
バスク人は、スペインではやはりアウトサイダーです。イベリア半島の先住民族としてすっと抑圧されてきた。その出身ですから、マイノリティーに対する思いがすごかったんでしょうね。
沖浦
ほんとに親鸞の教えと似ているところがあるんですよ。
五木
あるひとつの時代をリードしていく人物は、そういうところにしっかり目配りしないと、時代を動かすことはできないんでしょうか。
沖浦
苦しい時勢の中で、なんとか生きていこうとする民衆の思いと深く結びついていないと、宗教も結局はダメですね。
五木
織田信長のようなすごい相手と闘って、石山本願寺があれだけ長く抵抗できたということは、村上水軍や雑賀衆など海の民・川の民のバックアップや応援があったればこそだとは、よく言われていますが、実態はどんなふうだったんですか。
沖浦
この問題はあとでまとめてみることになりますが、本願寺救援でいちばん力を尽くしたのは、村上水軍と雑賀水軍の連合軍です。八百隻で救援に行くんです。上陸したのは大阪湾の木津川河口のゑっ田ヶ城です。その当時「えった」と呼ばれている人たちの手引きで上陸しているんですよ。
さっきのアルメイダの話と関わりますが、医者も呪術的な職業と見られていたんですね。
五木
医者というのは、西洋でもアウトサイダーの出が多かったんです。医者も呪術師というか、マージナルな職業の一種なんですね。
沖浦
日本でも古代からそうでした。十三世紀に編集された『東北院職人歌合』の絵巻では、陰陽師とペアになっているのは医師なんです。近世に入っても、医薬道と賤民層は深い関わりがあります。被差別部落で医薬道に関わった資料が各地に残っています。
五木
つまり、医者というのは、もともとマジカルな存在と見られ、それによって賤視される面もあった、ということですね。
沖浦
一七〇〇年代の終りごろから一八三〇年代にかけて、大飢饉が相次いでやってきて、全国的に多くの難渋者、餓死者が出た。天保の大飢饉では、全国で約三十万人が餓死したといわれています。各地の過去帳でそれを実証できます。その前の天明の大飢饉のときでも、老中だった松平定信が『宇下人言』と題した自叙伝で述べているんですが、人別改をやると「まえの子のとし」より消えた者が百四十万人と書いています。
……彼らはみな死んだのではなく「帳外れとなり、又は出家・山伏となり、又は無宿となり」とある。それを読んで、ははぁ、と思った。この「無宿」「さまよいありく徒」となった人たちの中から、後にサンカと呼ばれる人たちが発生したのではないか。



